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2025/02/11 22:58 |
悩む
ここ数年、他人の死に接することで感じられる節目がある。
私個人の感覚で言えば、死は普遍的なものである。人間は、みんな死ぬ。
ただ、死は一方で特別でもある。自分にとって関係の深い、もしくは何らかの関係がある人の死は、死の普遍性という道理を前にしてもやるせない気持ちになる。

先年、私は身内を亡くしたものの、いま親しい友人がその立場に居るとの報が入った。
私の場合は父であったが、友人の場合は兄弟の一人で、まだ若く突然の病とのことである。
正確にはまだ同様の立場にはなっていないものの、明日、明後日には、ということらしい。
年末、東京へ顔を出した時にその友人と一緒に酒を飲んだ。
父を看取る前後に伝えてはなかったものの、約束の際に電話を交わしていたので、私が最近父を亡くしたということを友人は知っていた。
友人は特別に言葉に出して私を慰めてくれた訳ではなかった。
一緒に酒を飲み、鍋をつついて、私たちの年頃にはよく話題に上る他愛もない話をした。
ただ、目線や表情には、やはり気遣いが溢れていたように私には感じられた。
何も言ってくれなくてもよかったのだ。一緒に、話をできるだけで私は単純に嬉しかった。

そういうこともあって、今回、友人が一言だけ正月にこの突然のことについてのメールをくれた。
自分が以前に似た境遇であっただけに、そのメールを送信するか否かには随分悩んだのではないかと察せられた。
すぐ電話を入れたものの、かける言葉がみつからない。
回復が見込めない昏睡状態。友人はもう葬式はどうするか考えなければとも言っていて、聞いていると胸が痛くてならない。
きっとよくなるなんて口が裂けても言えず、結局、電話口ではたびたび沈黙で会話が途切れた。
何もできないけど、いつでも電話して欲しいと、私が言えるのはそれだけだった。いざ求めてくれたなら駆け付けるとも言った。
本当は、できることならもっと色々なことをしてあげたいと思う。
一目、顔を見て手を握るだけでも、ウィダーインゼリーを差し入れるだけでも、してあげたい。
けどそれが押しつけがましい、私だけの自己満足なのではないかと思って、私は少し躊躇っている。

なんだかぐるぐる悩んでしまっているので、ここに書いてみた。
悩みの趣旨は、上記とは別に簡潔に纏めると、病に倒れた本人(友人の兄弟)との面識は薄い(何度か食事を一緒にしたことはある)のに、ほぼ友人のために、友人の顔を見に行ってもよいのか…ということです。


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2011/01/10 19:01 | 雑記

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