それなりに日本列島を東西南北飛び回る日々でした。
生きています。
出張+友人結婚式であちこち行っていたので、旅の友として本を買いました。
昔から、梨木香歩さんは好きな作家さんです。
温かみのある文章で、空間や人をとても大事に描写してくれる…って言葉で伝わるか判らないのですが、眼差しが優しいというか。
でも現実ってとても厳しくて汚くて、文章なんかじゃ言い表せないほどひどいこともあったりして、それをさりげなーく忍ばせて、でも大らかに世界ってものと向き合っている。
以下は勝手な読み取りゆえに至った感想なんですが、梨木さんはたぶん現代社会の在り方に馴染めなかったというか、距離感を置いている人なんだろうな、と。
社会不適合と言ってもいいかもしれない。一般社会の常識に添いたい。添った方がよいと思う心と、それに添えない、添いたくない心を滲ませている感じ。
これも自分勝手な話なんですが、梨木さんの文章を読んでいると大学時代の恩師(イエズス会の修道士でした。ずいぶん型破りな爺さんでしたが)を思い出します。なんか雰囲気が共通するというか。
彼女が信仰を持っているのかは知りませんが、常に信仰を探ってる人(特に、カトリックの神と精霊と子の在り方、その距離感?)って、あ、この人は信仰があるっていう感覚を伝えてくるような気がします。
私自身は特になにも信仰する宗教がないのですが、神とか仏とかなんでもいいんですが信仰の対象を自分の中に持ってるってどんな感じなのかな?と興味深く思っています。
信仰って、心に働きかけるルールだと思うんですね。
信仰によって、彼もしくは彼女もしくは中性的、神的な何かが語ったルール、そうあれ、って言われる形式に添おうと頑張るわけじゃないですか。
学生時代に、これって学歴や美しい外見や年収や幸福な家庭像、愛国心みたいな一般常識も信仰対象なんじゃないか?と思ったことがありまして。
特定の個人じゃなくて社会みたいに捉えきれない自分の外側の何者かが、そっと囁いてくる。
そうしなさい。そうした方がよい。そうすることによって幸せになる。
そう思うと、私たちは実は信仰を持っているんじゃないか。私の心や、行動を規定する何かが、私の中には入り込んで語りかけてくるわけですね。
これを昔の社会学者はegoとidとか区別したり、社会には道徳って規範があってそれが大事!と言ってみたり。
話が逸れましたが、特定の宗教的信仰を持つと、いつのまにか心に入り込んだ○○信仰を相対化できていいのかな、と思うということです。
だからといって、相対化してくれる信仰に比重を置きすぎると俗世を捨てちゃったりするわけですが。
信仰の善悪はともかく、信仰を持つとそれを実践する生活を送るわけで、前述の、それに添いたい心と添えない心というアンビバレンスな状態を自分に強いることになるわけですね。
そういう人の、心の深さというか、精神的な奥行きには、はっとさせられる瞬間があります。
信仰で大事なのは、自分自身の生活とのバランスと他人に強要しないことだと思うので、過度なダイエットや学歴至上主義や人種差別や民族主義、幸福の押し売り的布教活動も、個人的には疑問があります。
そう、学生時代にけっこう考えたこの手の問題の結論は、「自分のことは自分が一番見ている」ということでした。
梨木さんの本は人との距離感とか生活ってものを捉えなおすチャンスを与えてくれるので、とても好きです。
というわけで、読んだのは「雪と珊瑚」というものでした。
上記のくだまきは、全然、内容にはかすってないです。すみません。
拍手やメッセージにいつも力添え頂いています。ありがとうございます!
そろそろ本編更新できるように準備しておりますので、しばしお待ち下さい。
生きています。
出張+友人結婚式であちこち行っていたので、旅の友として本を買いました。
昔から、梨木香歩さんは好きな作家さんです。
温かみのある文章で、空間や人をとても大事に描写してくれる…って言葉で伝わるか判らないのですが、眼差しが優しいというか。
でも現実ってとても厳しくて汚くて、文章なんかじゃ言い表せないほどひどいこともあったりして、それをさりげなーく忍ばせて、でも大らかに世界ってものと向き合っている。
以下は勝手な読み取りゆえに至った感想なんですが、梨木さんはたぶん現代社会の在り方に馴染めなかったというか、距離感を置いている人なんだろうな、と。
社会不適合と言ってもいいかもしれない。一般社会の常識に添いたい。添った方がよいと思う心と、それに添えない、添いたくない心を滲ませている感じ。
これも自分勝手な話なんですが、梨木さんの文章を読んでいると大学時代の恩師(イエズス会の修道士でした。ずいぶん型破りな爺さんでしたが)を思い出します。なんか雰囲気が共通するというか。
彼女が信仰を持っているのかは知りませんが、常に信仰を探ってる人(特に、カトリックの神と精霊と子の在り方、その距離感?)って、あ、この人は信仰があるっていう感覚を伝えてくるような気がします。
私自身は特になにも信仰する宗教がないのですが、神とか仏とかなんでもいいんですが信仰の対象を自分の中に持ってるってどんな感じなのかな?と興味深く思っています。
信仰って、心に働きかけるルールだと思うんですね。
信仰によって、彼もしくは彼女もしくは中性的、神的な何かが語ったルール、そうあれ、って言われる形式に添おうと頑張るわけじゃないですか。
学生時代に、これって学歴や美しい外見や年収や幸福な家庭像、愛国心みたいな一般常識も信仰対象なんじゃないか?と思ったことがありまして。
特定の個人じゃなくて社会みたいに捉えきれない自分の外側の何者かが、そっと囁いてくる。
そうしなさい。そうした方がよい。そうすることによって幸せになる。
そう思うと、私たちは実は信仰を持っているんじゃないか。私の心や、行動を規定する何かが、私の中には入り込んで語りかけてくるわけですね。
これを昔の社会学者はegoとidとか区別したり、社会には道徳って規範があってそれが大事!と言ってみたり。
話が逸れましたが、特定の宗教的信仰を持つと、いつのまにか心に入り込んだ○○信仰を相対化できていいのかな、と思うということです。
だからといって、相対化してくれる信仰に比重を置きすぎると俗世を捨てちゃったりするわけですが。
信仰の善悪はともかく、信仰を持つとそれを実践する生活を送るわけで、前述の、それに添いたい心と添えない心というアンビバレンスな状態を自分に強いることになるわけですね。
そういう人の、心の深さというか、精神的な奥行きには、はっとさせられる瞬間があります。
信仰で大事なのは、自分自身の生活とのバランスと他人に強要しないことだと思うので、過度なダイエットや学歴至上主義や人種差別や民族主義、幸福の押し売り的布教活動も、個人的には疑問があります。
そう、学生時代にけっこう考えたこの手の問題の結論は、「自分のことは自分が一番見ている」ということでした。
梨木さんの本は人との距離感とか生活ってものを捉えなおすチャンスを与えてくれるので、とても好きです。
というわけで、読んだのは「雪と珊瑚」というものでした。
上記のくだまきは、全然、内容にはかすってないです。すみません。
拍手やメッセージにいつも力添え頂いています。ありがとうございます!
そろそろ本編更新できるように準備しておりますので、しばしお待ち下さい。
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