萌え皆無です。
明日をも知れぬストレスフルな状況はまだまだ続いている、と私は感じます。
日経などは、3.11後経済の見通しを簡単に分析してますが、まあそうなるだろうな、という所感。
パニックがやや沈静化しているとはいえ、原発問題は解決されていません。
まだまだ、最前線で未来を犠牲にしているかもしれない方々が沢山いて、私たちもまた、そういった臨戦態勢の只中にいるのだ、という意識を持つのは悪いことではないと思います。
備えあれば憂いなし。
今回のマスコミ報道は、どちらかといえば政府擁護、パニック鎮圧に傾いているように私には見受けられます。
それは外国メディアも同様で、不必要に不安を煽らないように注意を払っていたように思います。
しかし、欧米各国の物事の判断の仕方というのは、日本のそれとは違って合理的判断というか、AはBである、ゆえにCという行動をとる必要がある、と、各チャネルがずばり主張しているように見えます。
公報を延々垂れ流すチャネルにまでは墜ちず、どこかにチャネルの主観を差し挟む。
(とはいえ、これは欧米メディアに対しジャーナリズム精神の夢を見すぎているかもしれない、という疑いを私自身も持ってはいます)
ただもう、日本のテレビで垂れ流される「直ちに健康への影響はない」にはうんざりです。
記者自身が調査報道もできない程、現場が忙しいのだ、と思うことにしましょう。
自分の仕事と原発問題、どちらがより身近な問題かといわれれば恐らく多くの人が仕事と答えるのではないでしょうか。(もちろん、被災地の方にとっては一にも二にも、具体的・物理的な援助が差し迫った身近な問題になると思います。)
原発のことは明日、明後日解決できるわけでもなく、そしてこの1ヶ月の給与を保障してくれるわけでもない。
働かなきゃ食べていけない。真理です。多くの人は、原発に対する不安を抱えながらも日常の仕事を優先させるでしょう。
少し、悲しくなります。私たちはなんのために生きるのか、と考えます。
何を守ろうとしているか。かけがえのないものとは、なんなのか。
昨日と同じ今日、という安定した生活もかけがえないもののひとつ、という実感は私にもあります。
ただ、日本という国を取り巻く状況を考えると、本当に色々考えなければならない岐路にいる気がします。
まあ、とやかく言っても私は日本の片隅で生きる小市民で、手の届く範囲も小さくて、でもできるだけのことをしようと思っている、そのことに尽きます。
選んで、結果がどうなるのであれ、選ぶ、という過程を無視したくないな、と。
疲れる作業ですが。誰も私の人生を私以上に考える人間はいないので、やれるだけのことはやってしまいましょう。
子爵令嬢一代記の中で、「誰かを殺して生きている。間接的なのか直接的なのかの違いがあるだけなのだ」って文章を私は書いたのですが、今、私はすごく「間接的に人を殺して生きている」って意識を持ちながら生活していて、だいぶ気が重いです。
でも、意識しないよりは自分を許せるかな、と思ったりもする。どうにも微妙な感じ。
うまく言葉にできません。
明日をも知れぬストレスフルな状況はまだまだ続いている、と私は感じます。
日経などは、3.11後経済の見通しを簡単に分析してますが、まあそうなるだろうな、という所感。
パニックがやや沈静化しているとはいえ、原発問題は解決されていません。
まだまだ、最前線で未来を犠牲にしているかもしれない方々が沢山いて、私たちもまた、そういった臨戦態勢の只中にいるのだ、という意識を持つのは悪いことではないと思います。
備えあれば憂いなし。
今回のマスコミ報道は、どちらかといえば政府擁護、パニック鎮圧に傾いているように私には見受けられます。
それは外国メディアも同様で、不必要に不安を煽らないように注意を払っていたように思います。
しかし、欧米各国の物事の判断の仕方というのは、日本のそれとは違って合理的判断というか、AはBである、ゆえにCという行動をとる必要がある、と、各チャネルがずばり主張しているように見えます。
公報を延々垂れ流すチャネルにまでは墜ちず、どこかにチャネルの主観を差し挟む。
(とはいえ、これは欧米メディアに対しジャーナリズム精神の夢を見すぎているかもしれない、という疑いを私自身も持ってはいます)
ただもう、日本のテレビで垂れ流される「直ちに健康への影響はない」にはうんざりです。
記者自身が調査報道もできない程、現場が忙しいのだ、と思うことにしましょう。
自分の仕事と原発問題、どちらがより身近な問題かといわれれば恐らく多くの人が仕事と答えるのではないでしょうか。(もちろん、被災地の方にとっては一にも二にも、具体的・物理的な援助が差し迫った身近な問題になると思います。)
原発のことは明日、明後日解決できるわけでもなく、そしてこの1ヶ月の給与を保障してくれるわけでもない。
働かなきゃ食べていけない。真理です。多くの人は、原発に対する不安を抱えながらも日常の仕事を優先させるでしょう。
少し、悲しくなります。私たちはなんのために生きるのか、と考えます。
何を守ろうとしているか。かけがえのないものとは、なんなのか。
昨日と同じ今日、という安定した生活もかけがえないもののひとつ、という実感は私にもあります。
ただ、日本という国を取り巻く状況を考えると、本当に色々考えなければならない岐路にいる気がします。
まあ、とやかく言っても私は日本の片隅で生きる小市民で、手の届く範囲も小さくて、でもできるだけのことをしようと思っている、そのことに尽きます。
選んで、結果がどうなるのであれ、選ぶ、という過程を無視したくないな、と。
疲れる作業ですが。誰も私の人生を私以上に考える人間はいないので、やれるだけのことはやってしまいましょう。
子爵令嬢一代記の中で、「誰かを殺して生きている。間接的なのか直接的なのかの違いがあるだけなのだ」って文章を私は書いたのですが、今、私はすごく「間接的に人を殺して生きている」って意識を持ちながら生活していて、だいぶ気が重いです。
でも、意識しないよりは自分を許せるかな、と思ったりもする。どうにも微妙な感じ。
うまく言葉にできません。
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