萌えとは関係ない話です。
去年だったか、一昨年だったか、八月に戦争報道が増えることについてここで語ったことがありますが、ここ最近の日韓問題を見ていると、歴史認識というか歴史の正しさって本当に千差万別だと思います。
根柢には、やはり戦争の後始末の仕方とか、国の成り立ちといったものがあるのでしょう。
韓国における8月15日は光復節という独立解放記念日とされています。植民地支配からの解放の日。
一方の日本では、終戦記念日。戦争が終わった日。日本が無条件降伏をし、それを全国民に告げた日。
ここの認識からして大きく食い違っている。
植民地化の是非は、当時の世界情勢、経済事情にも関わるので事実として一旦受け止めてみましょう。
とはいえ植民地政策は、現代においては「悪しきもの」として否定されています。人民の自決権が意識されたからですね。
この考え方を用いると、植民地政策というのは、他人が住んでいた場所に乗り込み、”俺の方が強いし正しい、先進国だしお前達発展遅れてるから開発してやるし、お前のものは俺のもの”ということになります。これにより、植民地の先住民は宗主国の国民から”下等”扱いされます。というか、植民地の先住民を下等にしてしまうのが植民地システム、という言い方もできます。
植民地政策の本意は、下等扱い云々ではなく経済圏の拡大等の利益問題にあったのですが、副産物として民族や特定地域住民に対するレッテルを作り出してしまった点に禍根の源泉があるように、個人的には思います。
さて、経済や国家や戦争といった事柄からみた植民地問題を考えるのではなく、下等扱いされた側の気持ちを、上等側の人がどれほど理解できるのか、という問題に捉え直してみると(すり替えたと思う方もいるかもしれませんが、個人的にこういうのって個人レベルの意識問題も根深いと思うんですよ)、ぜんっぜん対話出来てない、相互理解が進んでないというのが個人的所感です。
だから話してみよう、関心を持って接してみよう、調べてみよう、という結論へ私自身は繋がります。
歴史のことって、自分からとても遠いかもしれません。
けれど、自分が日本人または、○○人と属性を誇らしく思うのであれば、その属性に付与された負の側面、過去の歴史、どのようにその属性が形成されたのかという事実もまた、背負う必要があるかと思います。
責任を感じるとか、謝罪するのとはちょっと違っている気がしますが、自分自身の中に答を持っている、という状態が”背負う”ことかと思います。
問われた時に、誰に言われたものでもない、自分自身の答を返すことができるのか。
謗られることを厭って発言者を憎んでいないか。正しい、間違ってるって断罪する根拠が、その当時を生きていない私たちのどこにあるのでしょう。
けれど、属性問わず、その状況に置かれた相手に共感し、想像し、心を寄せることはできると思います。
未来から過去を眺めることをできる私たちは、過去の歴史の中で憎悪をぶつけ合った人々の両方の立場を思いやることができるのではないか、と私個人は考えます。
こういう思考法は、国家間の賠償問題を解決するものではありませんが、わだかまりを小さくするには役立つと思います。
年に一回くらい、こういう話をしてみるのでもよいのではないかと思って書いてみました。
去年だったか、一昨年だったか、八月に戦争報道が増えることについてここで語ったことがありますが、ここ最近の日韓問題を見ていると、歴史認識というか歴史の正しさって本当に千差万別だと思います。
根柢には、やはり戦争の後始末の仕方とか、国の成り立ちといったものがあるのでしょう。
韓国における8月15日は光復節という独立解放記念日とされています。植民地支配からの解放の日。
一方の日本では、終戦記念日。戦争が終わった日。日本が無条件降伏をし、それを全国民に告げた日。
ここの認識からして大きく食い違っている。
植民地化の是非は、当時の世界情勢、経済事情にも関わるので事実として一旦受け止めてみましょう。
とはいえ植民地政策は、現代においては「悪しきもの」として否定されています。人民の自決権が意識されたからですね。
この考え方を用いると、植民地政策というのは、他人が住んでいた場所に乗り込み、”俺の方が強いし正しい、先進国だしお前達発展遅れてるから開発してやるし、お前のものは俺のもの”ということになります。これにより、植民地の先住民は宗主国の国民から”下等”扱いされます。というか、植民地の先住民を下等にしてしまうのが植民地システム、という言い方もできます。
植民地政策の本意は、下等扱い云々ではなく経済圏の拡大等の利益問題にあったのですが、副産物として民族や特定地域住民に対するレッテルを作り出してしまった点に禍根の源泉があるように、個人的には思います。
さて、経済や国家や戦争といった事柄からみた植民地問題を考えるのではなく、下等扱いされた側の気持ちを、上等側の人がどれほど理解できるのか、という問題に捉え直してみると(すり替えたと思う方もいるかもしれませんが、個人的にこういうのって個人レベルの意識問題も根深いと思うんですよ)、ぜんっぜん対話出来てない、相互理解が進んでないというのが個人的所感です。
だから話してみよう、関心を持って接してみよう、調べてみよう、という結論へ私自身は繋がります。
歴史のことって、自分からとても遠いかもしれません。
けれど、自分が日本人または、○○人と属性を誇らしく思うのであれば、その属性に付与された負の側面、過去の歴史、どのようにその属性が形成されたのかという事実もまた、背負う必要があるかと思います。
責任を感じるとか、謝罪するのとはちょっと違っている気がしますが、自分自身の中に答を持っている、という状態が”背負う”ことかと思います。
問われた時に、誰に言われたものでもない、自分自身の答を返すことができるのか。
謗られることを厭って発言者を憎んでいないか。正しい、間違ってるって断罪する根拠が、その当時を生きていない私たちのどこにあるのでしょう。
けれど、属性問わず、その状況に置かれた相手に共感し、想像し、心を寄せることはできると思います。
未来から過去を眺めることをできる私たちは、過去の歴史の中で憎悪をぶつけ合った人々の両方の立場を思いやることができるのではないか、と私個人は考えます。
こういう思考法は、国家間の賠償問題を解決するものではありませんが、わだかまりを小さくするには役立つと思います。
年に一回くらい、こういう話をしてみるのでもよいのではないかと思って書いてみました。
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